2014年10月7日火曜日

だからここまで歩いて来れた(182/365)

「なりたい自分」になるために歩んでいても、自分に自信がなくなることはよくあります。

そんなとき

不安になるとき いつだって
私以上に信じてくれる人が

いたから頑張れたという曲です。

何度も書いていますが、「歌・こよみ365」は基本的に他の人のエピソードを歌った曲です。とは言え、エピソードを選ぶのも、それを題材に作詞しているのは宮崎奈穂子さんですから、どうしても彼女の思いが出ます。

「路上から武道館へ」みたいな本当に個人的な曲でさえ、感情移入する人がかなりいるわけですから、「誰かのエピソード + 宮崎奈穂子の思い」で作られた曲は、エピソードを超えて普遍的な価値を持つようになります。

この曲は、2012年以前からのファンなら絶対に武道館単独ライブのエピソードを思い出すはずです。

武道館を予約するのは誰だってできます。お金さえ払えばコンサートだってできます(もし、資格審査があったらごめんなさい、この言葉は撤回します)。

難しいのは、会場に人を入れることです。大きな舞台ですから、舞台装置がないと空間が持たないでしょうし、効果的な演出がないと飽きてしまいます。何より、会場に人を入れないといけません。

仮に、舞台装置や演出がなかったとしても、満席で1万5,000をある程度埋めないと意味がありません(コンサートの場合は1万5,000席に満たないそうですが)。

一介の路上ミュージシャンが、いきなり武道館に立つことに意味はあるのか。

いきなり武道館ではなく「ライブのたびに集客が増え、入りきらないから武道館」という流れだろう。

こうした声は、ファンの耳にも入っていたくらいですから、本人はその何倍も忠告や中傷があったと思います。武道館コンサート直後に出版された著書にも

「こんな私が武道館に立っていいものだろうか」

と悩んだ話が出てきます。

それを支えたのは、スタッフであり、集客に走り回ったファンだったと思います。友人にお願いしたり、宣伝してもらったり、中には自腹でチケットを余分に買った人もいます。

そもそもなんで武道館?」という批判には答えられませんが、こうしたスタッフとファンの努力に対する感謝がこの曲なのだと思います。

「武道館の感謝を形にする」という「歌・こよみ365」のコンセプトに直結する、いい曲だと思います。

●タイトルについて

ところで、宮崎奈穂子さんの曲の多くは、いわゆる「ら抜き言葉」です。この曲のタイトルも「ら抜き言葉」です。

今のところ、これは「誤用」ということになっていますが、そろそろ認めてはいいのではないかと思います。現在の30歳代以下は「ら抜き」しか知らない世代になっています。

平安時代、清少納言は「枕草子」で、若者の「ト抜き言葉」を嘆いています。これは「言わんとす(る)」を「言わむずる(言わんする)」という具合に略した言葉だったそうです。

この用法は、その後定着し、新しい文法ルールになったと言うことです。

「ら抜き」もすっかり定着しており、間違いを指摘しても何が問題なのか理解してもらえないようになっています(Wikipedia:日本語の乱れ:ら抜き言葉)。私の同僚は報告書に「しゃべれる」と書いたら(報告書に登場しそうな単語ではないので、違う言葉だったかもしれません)、お客様から「ら抜きは避けてください」と指摘されたそうです。

「しゃべる」は五段活用の動詞であり、可能動詞として使えますから、文法的には全く問題ありません。おそらく「食べる/食べれる」からの想像で、「しゃべる/しゃべれる」が間違いだと思ってしまったのでしょう。

国語学者の金田一春彦氏によると「ラ抜き」は日本語の自然な進化の過程なのだそうです。本来の日本語は「可能」と「受身」を同じ助動詞で表現するため、区別が難しい場合があります。

たとえば、動植物を指さして「これは食べられる」言ったら、食材として利用可能という意味になります。

しかし、アフリカの草原で、お腹をすかしたライオンの前に丸腰で「これは食べられる」と言ったら、これはもう観念して捕食されてしまうことを受け入れようという意味になります。

帰ってきたウルトラマン」に登場する怪獣「ツインテール」を指している場合はどちらか分かりません。ツインテールには人間を捕食するという設定はありませんが、食べられてもおかしくはないでしょう。一方、「帰ってきたウルトラマン」放送当時の児童誌や怪獣図鑑などでは「肉はエビに似た味で美味」と書いてあり、円谷プロも公式設定として認めているそうです。

そのため、ツインテールを指さして「これは食べられる」と言ったら、食うか食われるかはっきりしません。

その点「これは食べれる」だと食材だということがはっきり分かります。受身の「食べられる」を厳密に区別する方法はないので混乱は残りますが、全く区別しないよりはマシでしょう。

なお、「ラ抜き」が問題になったのは1990年代前半からのようですが、40年前には用法として既に登場していたように思います。これだけ長い年月をかけて普及しているのだから、単なる流行ではなく、日本語の変化と考えた方がいいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿