伝えたいことがあるのに、うまく伝えられない女の子の歌です。
どうしてこうなんだろう?
こんな私変えたいんだよ
でも本当は こんな私のまま
受け入れられたら …だめかな…
と、最後はこんな風に終わります。
人間は社会生活を行う動物であり、種としての生存戦略は「みんなで助け合う」です。かつての身分制度などは、「みんなで助け合う」ようには見えませんが、実は同じ階層内では平等性が高く、身分制度は「価値の上下」ではなく「社会役割の違い」という説もあります。
もちろん、現代社会では「自分の意志に反した社会的役割の強制」は「差別」と考えられており、「良くないこと」とされています。たとえば、よく知られているように「女性差別撤廃条約」は「一切の差別と区別を禁止」とうたわれています。本人の意志に反する場合は、たとえ「区別」であっても「差別」と同じく、「良くないこと」と考えるのが国際社会の常識です。
一方、社会の中で、自分が承認されることは、「他の誰でもない自分自身の存在」をアピールすることになり、社会の中で生存できる可能性が高まります。
つまり人間にとっての「承認欲求」は、生きることと同じくらい大事な意味を持ちます。ですから、承認欲求を否定することはないのですが、度を超えてしまうと自分が生きにくくなります。
実際のところ、みんながみんな他の人に分かってもらえている(承認されている)わけではありません。
クラスの人気者であっても、多くの人は表面的な部分しか見ておらず、その人の内面を評価しているわけではありません。むしろ、人気のある人ほど自分を見てもらえないくらいです。
テレビに出てくるタレントは、売れていればいるほど「あの人はこういう人だ」というイメージが強くなると思います。でも、実際に会って話した人はあまりいません。みんなバラエティ番組での対応や、ブログの内容から勝手に評価しているだけです。
「分かって欲しい」というのは、本当はとても贅沢な欲求です。「他の人も、自分のことを分かってもらっていないから、自分だけが、自分を分かって欲しいと思うのは贅沢だ」と思えば、少しは気が楽になりませんか。
それともう1つ。多くの恋愛は
「あなたをもっと知りたいの(あなたが分からない)」
からスタートして
「あなたってそんな人だったのね(あなたのことが分かった)」
で終わります。
もちろん、そこで「分かった」と思うのは勘違いなんですが、「分かった」と思われてしまった時点で終局を迎えるというのは面白い現象です。
そういうわけで「分かってもらう」ことにこだわらない方が楽なんじゃないかと思います。それよりも、「何かの役に立つ」ことで関係を保った方が、結果的に自分のこと(ある一面ですが)を知ってもらえるような気がします。
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